最近、5歳の娘が漫画とアニメ映画にハマって、娘の国語力が急に上がりました。でも日本では、漫画やTVはよくないと聞きますね。フィンランドの教育では漫画と映画はオススメらしいです。まーお子さんそれぞれで違いますし、漫画と映画の影響は、親が見極めるしかないですね。私は、「買い物に必要な足し算、引き算やったら漫画とアニメ見せてあげるけどどうする?」って言ってから子供の算数の勉強時間が延びました。うちの娘は勉強癖がついてなので、こんなやり方で勉強させてますが、他の子育て本では批判されそうですね(笑 子供一人一人教育のやり方は全く異なるとおもいます。次の課題は、自分から生きていくために必要な勉強をどうやって自ら勉強させるかです。。。

「子どもの「頭のよさ」を引き出すファインランド式教育法」

世界56カ国の中で、ファインランどと言う国の子どもたちがどうやって世界トップの学力を身につけたのか、その真実に迫っていく。世界の目から見ても日本の学力低下は証明されている。ゆとり教育の廃止にともなって、同じ年齢のファインランどの子どもと比較して400時間も多く学習することになった。逆の言い方をすると、フィンランドの子どもたちは、日本の子どもたちよりも年間で400時間も多く、親と過ごしたり、友達と一緒に外で遊んだりしていることになる。

フィンランドの人々は大人も含め、一生に一度の人生を楽しまなければ、一体何のために生きているのかわからない、と言う思いを持っている。ファインランド人にとっては、楽しく生きてこそ人生に価値が生まれるという発想なのである。フィンランド人の誰一人として、仕事を退職してからゆっくり人生を楽しもうなどという日本人的な考え方を持ち合わせていない。

最近の研究で明らかになったことだが、太陽の光を浴びないと骨がもろくなったり、うつ病になったりすると言う。子どもも大人も、休みの日は一緒に公園で遊ぶ。父親は動物や植物の習性や不思議な話を子どもにする。その物語は、再び森の中に入った時に続きを話して聞かせてやる。フィンランドの教育は、森の木が育つように、ゆっくりじっくり子どもを成長させていく。毎日、時間に追われて生活をする日本の子どもたちとは違い、フィンランドの子どもたちには、本当のゆとり教育を実践されているのである。

人は自然に生かされているという考え方。最近の研究結果では、子どもの頃により多くの自然に触れたことのある人の方が、大人になってから芸術的な才能が開花しやすく、人間的な成長も著しい傾向にあると言う報告がされている。その結果がすべての人々に共通した真実であるとするならば、ほぼ毎日、学校と塾へ行って勉強ばかりしているというような生活習慣は、人間の能力の成長にとって弊害が生じることになる。「勉強するほどバカになる」などと表現するとちょっとオーバーなようあが、日本の教育の現場では、実際にそんな悪循環に陥っている子どもが多いのではないだろうか。

サラリーマンの7割が別荘持ち。安い土地は200万程度。それを買って自分たちでつくた丸太小屋タイプのものが主流。フィンランドでは別荘を持っていることは当然のことであり、ステータスではない。別荘を持っていない人間に会うと「なぜ、一軒しか家を持たないんだ?」と逆に質問されるくらい。週末は別荘で過ごす。

森の中で過ごす人々は、いつの間にか自分の生き方や悩みを話し始める。年上の人は、その話に耳を傾け、適切なアドバイスをする。森は人生の勉強の場でもある。

フィンランドでは、自然に鼻呼吸をさせるためにおしゃぶりを2、3歳くらいまで着用されている。フィンランドでは鼻呼吸をしなければ、体になんらかの害が及ぶという概念が一般化している。

日本では、子どもたちの多くが虫を嫌っている。この傾向は大人にも見られる。ファイランドの女の子たちは、みな芋虫を可愛いという言う。学校や家庭で、人間にとって本当に害のある昆虫は何かということについて、徹底的に話し合いが持たれるからだ。見た目がグロテスクな小さな昆虫たちも、なんらかの役目を持って、この地球に生息しているのだ。

人は欲しいものを手に入れるために努力をする生き物だ。子どもは何もかも与えてしまうと輝きを失う。子どもに洗車が終わったらお小遣い。半年かけてコツコツためたお金で買ったおもちゃを手にした時の、その子の笑顔は格別なものとなるだろう。そうやってフィンランドでは、努力を続けたことで成功を収めることができるという生き方の概念を、子どもたちに対して身をもって教え込む。

年の差の違う6歳の子どもと12歳の子どもが一緒に仲良く遊んでいるのだ。年の差があっても仲がいいのである。日本の子どもたちは、どちらかというと、同じ学年の子どもとしか遊ばない傾向がある。

勉強より大切なものはこの家族の絆です。助け合うことの喜びを持って生きてもらいたいと常に考えています。

断言しよう。日本の子どもたちのほとんどは、塾で勉強している時間よりも、塾への往復の時間の方が長い。塾は2時間の授業があったとすると、半分くらいが小テストだの、先生の無駄な話などに費やされるのが普通だ。実質30分程度のものではないかと思われる。そんなことなら、内容の濃い「生きる力」となる勉強を家で2時間した方が良い。フィンランドでは、それを学校と親で行っているのである。

都会に住む子供ほど、親子の会話が少ない。父親は仕事で夜中に帰宅することが普通で、母親はダンスなどのカルチャー教室に通うのに忙しい。よって、夕食は全員バラバラ。

フィンランドでは、社会のシステム自体が自分でなんでもやるように構成されている。スーパーマーケットに賞味期限が切れている商品があっても、買うかどうかは客側の問題であって、店の人は日本のように神経質になって商品管理をしない。「これは賞味期限が切れているけれど、いくら安くなる?」といった交渉をする客がいるくらいで、賞味期限が切れているからといって店にわざわざ文句をいう人はいないのだ。

フィンランドには宿題がない。「ここに面白い問題が2問だけ載っているプリントがあるけど、家で挑戦してみようと思う人は持って帰って」フィンランドの先生はこんな言い方をする。人間という生き物は、強制されても決して真の能力を伸ばすことはできない。怒られればその恐怖心から多少の成果が得られるが、長続きはしないのである。

自分一人の孤独な時間を味わえる人は幸せだと言える。一日中孤独を感じているわけではなく、1日のうち数時間、孤独でいられるのだから、その時間帯は1日のうちで一番贅沢な時間帯なのである。子供が一人きりでかわいそうだと思わずに、子供の想像力を伸ばすために、あえて孤独な時間を作ることで援護射撃をしていくべきだ。

14歳までにその子供の性格がだらしなければ、大人になってもずっとだらしないままだというデーターが出ている。つまり、14歳までに忍耐力や几帳面さを身につけさせないと、その後、ずっとそのままの性格で人生を歩むことになるというのである。親に忍耐力があれば、その子供は必ず忍耐強く育つ。子供には、常に一緒にいる人の性格が乗り移る。つまり、親の性格がそのまま乗り移るのである。親が面倒臭がったり、すぐに「疲れた」というようであれば、その子供ももすぐに「疲れた」と言うようになってしまう。

フィンラインドの一般の家庭では、子供が「お腹がすいた」といえば、特格本人が満足のいくまで何かを食べさせる。その反面、公共の場で子供が騒いだりしたらタダでは済まない。フィンランドでは「学力」以前に「しつけ」ありきなのである。現在の日本ではどうかというと、確かに昭和の中頃までは、お父さんの存在が「恐怖」であった。だが、父親の権限や尊厳が失われてから、子供たちのやりたい放題の日常が始まった。

学習の心構えとして子供たちの心から「面倒だから」という気持ちを取り去ることが必要となる。まず、親または指導する側がその気持ちを持っていては何を言っても子供には伝わらない。大人が全てにおいて「面倒だから」という気持ちを棄て去り、行動することに尽きる。

子供は何歳まで子供なのか?25際くらいまで子供だと思っていた方が良い。20歳を過ぎればもう立派な大人だと思うのは大間違いだ。一番危険な思想を持つ年齢は、日本人の場合、20〜25歳の間だ。この5年間で子供から大人への切り替えが行われるために、情緒不安定になりやすい。その期間に怪しい集団の勧誘によって、とんでもない道に進んでしまう若者もいる。

漫画は日本が誇る最高の学習アイテム。「漫画は悪」という概念が日本にはある。漫画を読むとバカになると信じている親もたくさんいる。またそのような親は、良い本をたくさん読むと頭がよくなると思い込んでいる。だが、本来、本を読むという作業は映像を伴うものなのだ。「新緑の木濡れ日の中を少女は走る。その姿は春の訪れを伝えるとヒバリのように軽やかだった」このような物語の部分を読んだ時、映像と音がカラーで頭の中に構築できて初めて、本を読む意味が出てくる。本物の「新緑」「木濡れ日「ヒバリ」を知らない人間がこの文章をいくら繰り返し読んだところで意味はない。子供たちには、中途半端に漫画を読ませるのではなく、次から次へと良質の漫画を読ませるべきだ。いい漫画を数多く読んでからレベルの高い小説を読むと、自然に頭と心に染み込んでくる。漫画は世界に誇る日本の学習アイテムなのである。

映画が総合的な国語力を養ってくれる。映画館でたまに映画を見るだけではなく、週に2本は映画を見るようにしなければ国語力の向上は期待できない。映画には音声とともに映像が目に見える形で表れる。「何を躊躇しているんだい」という言葉を本で読んだとしても「躊躇」という言葉をどんな時に使うのかがわからない。だが映画であれば、主人公が怒鳴ったり、そわそわしたりする仕草が映像として確認できるので、「躊躇」をどこで使うかがわかる。本には映像や音声がついていないので、子供たちは自分の勝手な解釈で本の内容を読み進めてしまう傾向にある。実際に海に潜った経験がなくてもそのようなテレビ番組を通じて疑似体験が可能だ。疑似体験であっても子供の想像は果てしなく広がる。


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