知は権力?!

人生の幅を広げるには、人と会うこと。旅をすること。本を読むこと。

カテゴリ: 幸福論

「貧しい人のことを考えて行動しよう」と言われてもわかったつもりになっていてるだけで、実際に貧しくなった経験がとないと人間ってわからないのかもしれませんね。

「私の幸福論」
同じ状況でも人によって、その感覚をもてる人ともてない人とががる。素朴な生活や貧しさや戦いの中でも幸福感はみたしてれる。文明は平和の恩寵に長く浴している人々では自分が幸福だと感じるハードルが高くなり幸福感は鈍くなる。

自分を大切にするということは自分をきずつけないように引き出しの奥に大事にしまっておくことだと勘違いしているのかもしれません。自分を大切にするとは、もてるものをあますことなく最大限につかいこなすことをいうのです。

新しい自分を切り開いて行くことに、私たちはもっと貪欲であっていいと思うのです。時には幼い子供達に習って、理屈ではなく全身を投げ出す勇気を奮い起こしてはどうでしょう。頭で考えれば滑稽だったりしても、子供達のようにひとまず信じてみるのもいいかもしれません。余分な知恵を長いあいだに身につけて、人生に対して慎重さばかりを求めるようにになったころにはなおさらです。

戦後、豊かさに向かってひたすら走ってきたのです。戦争で失ったものを豊かさがきっと穴埋めしてくれるだろう、これで平和になれると私たちは思ったのです。けれども走り続けるうちに、心の豊かさよりもモノの豊かさの方を求める気持ちが強くなっていました。モノが豊かになれば、心穏やかにそして豊かに生きていけるような気がしていたのかもしれません。ところが今になって、豊かさを手に入れること引き換えに取りこぼしてしまったこと、あるいは失ってしまったことがこんなにもたくさんあったのかと私たちは、愕然としています。

私たちふだんの日々のなかにも、書物を読み、人の話を聞いてわかったと思っていたものが、じつはわかったつもりになっていただけであったと、実際に体験をしてから気づことがあります。体験して獲得したもののほうが、頭での理解よりもよほどゆるぎないものだろうと私は思うのです。

延命治療というのは、いのちをただ引き延ばしているだけであって、その人にとってつねにもっとも大事な「生きる」ということに目を向けていません。そのために、いのちの質を著しく損なう暴力となることもあるのです。
愛する人達に「ありがとう」を伝えて旅立てるならば、それ以上に望むことはありません。「生まれてきてよかった」と心を込めていえるように、私は生きているかぎり、この一瞬一瞬を存分に味わうことに力を出し惜しみしない覚悟でいます。


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私もこれは疑問に思っていましたね。経済発展は人を幸せにするとは限らないですね。人間が幸せになるために、経済発展や豊かのために働くといっても、残業してまで働いたら一人一人は前の世代よりも不幸になっていると思います。

「幸福を探して 人類250万年の旅~世界的ベストセラー~」

フィクションを信じる力。お金、国家、会社、法律、正義、神。フィクションだらけの世の中。

人類が繁栄したのは、このフィクションを信じる力があったから。

ホモ・サピエンスが生き残って繁栄していったのは、ネアンデルタール人は、見えるものしか周りに伝えることができなかった。ホモサピエンスは神様のようなフィクションを信じ、見知らぬ人に伝えることができた。

フィクションを想像し、みんながそれを信じることによって、みんなで力を合わせて大集団の作業が可能になった。

文明の発展が人間を幸せにするとは限らない。農業革命では、集団で安定して穀物をえることができた。しかし、集団としては発展したが、一人一人は働く時間が長くなり、貧富の差ができた。平均的な農耕民は平均的な狩猟州民よりも苦労して働いたのに、見返りに得られる食べ物は劣っていた。農業革命は、史上最大の詐欺だったのだ。人間を働かせて、小麦が各地に広がったのは、小麦に人間が家畜化されたとも言える。

今でも満員電車で通っている人たちも農耕社会の名残りみたいなもの。何千年も続いた社会規範をなかなか捨てることができないから、矛盾を受け入れる柔軟性がない。

個人の幸せから歴史を見る。

実は幸せかどうかを考えるのはもっとも大事なこと。歴史を振り返ると人間は集団の力や権力を手に入れても、それを個人の幸せと結びつけることはできない。現代人は、石器時代より何千倍もの力を手に入れていますが、一人ひとりはそれほど幸せには見えません。

農業を定着することによって、私たち人類は、実は生きていくのに大変危険なリスクを背負いこむようになった。

個人の幸せには目を向けず、国家や権力だけに目を向けていた。幸せを軽んじると「国家や権力の発展は必ずしもみんなの幸せに繋がらない」ということを忘れ、拡大や成長ばかりを追い求めることになってしまうのです。

経済が発展しても一人一人は不幸になった。

経済成長すれば、みんなが幸せになると信じているだけ。世界の経済成長率は2010年から停滞し続けている。資本主義社会が限界に来ている。2014年の経済のパイは、1500年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平で、アフリカの農民やインドネシアの労働者が一日身を粉にして働いても手にする食料は、500年前の祖先よりも少ない。人類とグローバル社会は発展し続けるだろうが、さらに多くの人々が飢えと貧困に喘ぎながら生きていくことになるかもしれない。

資本主義のグローバル化で格差がどんどん広がっていく。

経済の停滞は勝者と敗者を生み出し、自分を敗者だと思う人々は、この世界は不公平だとあらわにする。

資本主義に変わるフィクションを探す必要がある。

フィクションは人間を発展させる一方で、私たちはアメリカが世界のリーダーだというフィクションを長年受け入れて来ました。フィリピンや中東、ヨーロッパの国々などは、もはやアメリカが世界のリーダーではないと考え始めている。みんなんが信じて来たフィクションが変わることもあるし共有できないこともある。

資本主義によって翻弄されている。世界中の中央銀行が景気をよくしようとしているがうまくいっていない。資本主義は近代でもっとも成功した考え方で宗教とさえ言えます。でも、そのために大規模な経済破綻や政治的な問題も起きています。今たった一つの解決策は全く新しいイノベーションを起こすことだと思います。

未来のテクノロジーの持つ真の可能性は、乗り物や武器だけではなく、感情や欲望も含めて、ホモ、サピエンスそのものを変えることなのだ。おそらく未来の世界の支配者は、ネアンデルタール人から私たちがかけ離れている以上に、私たちとは違った存在になるだろう。

これまでは次の革命に進むのに何千年もかかっていたが、今は2、30年で変わってしまうのです。今後、1、2世紀のうちに人類は姿を消すと思います。人間が絶滅するということではなく、バイオテクノリジーや人工知能で、人間の体や脳や心のあり方が変わるだろうという意味です。

人間自身がその技術によって追いこまれていく。そんなことにもなりかねない。身の丈をはるかに超えた科学技術を扱う人達が安易にそこを推進することにはかなり危うさがある。

こういう社会であったほうがいいと、みんなで共有する必要がある。

科学技術と政治と社会の関わり方が重要。人工知能は短い時間で大きく世界を変える可能性がある。今の子供が、40、50歳になった時にどんな仕事をしているかわからない。どんな未来を過ごしたいのかしっかりビジョンをもつ。そして、幸せな道に進む賢い選択をする。そのためには科学と政治はもっと協力しなければならないと思います。

欲望をコントロールできるかどうかにかかっている。私たちが直面している真の疑問は、私たちは何になりたいのか?ではなく、私たちは何を望みたいのか?かもしれない。



 

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確かに現代のベストセラー本は「健康、占い、自己啓発、食べ物」の本が売れており、サバイルの人生を生抜いていくための本とかって売れないですね。豊かになったんでしょうね。アテネの芸術品も経済が豊かな時代に、食べて行くのに困る人が少なかったため、多くの芸術品が生まれたという話を聞いた事もあります。食べ物に困らない生活ができると、「人はどう生きるというべきか」という幸せな悩みが出てくるということですね。幸せを追求して、良い方向へ行く人もいれば、幸せとは何かを追求しすぎて、逆に悪い方向へ行ってしまう事もあるかもしれません。「幸せ」とは何かという悩みがないことが「幸せ」かもしれませんね。子供を見てるとそう思います。

「ラスト ワルツ」

人はどう生きるというべきかという有名で重要だとされている問題がある。どう生きるべきかという問いは、私たちの社会では、精神論で語られる事がある。他人にやさしくとか、弱きを助けるとか、自立して他人に依存しないとかそういったことだ。私は生まれてから、これまで、どう生きるべきかなどと考えた事はないし、今も考えない。私が、子供の頃から考えたのは、どうやって生きて行くのかということなのだ。何をして食って行くかという具体的で切実な問いだ。私は、幼稚園の頃から、サラリーマンに向いていないんじゃないかと言われた。給料取にはなれないのなら、じゃーどうやって生きていけばいいのかと考えていた。

一般的に、本や雑誌が売れなくなっているという状況が続いているといわれているらしい。健康、占い、自己啓発、食べ物など、どちらかといえば、どうでもいいものがベストセラーになってきた。そういったグチには、くだらないものばかり売れる嫌な時代というニュアンスが含まれている。私は、そういった本が売れてきているのも理解できる。

最も戸惑うのは 若者達だろう。今の若者達は、典型的な成功モデルを見いだす事がきわめて難しい。大会社に入って、出世を目指すのか、起業するのか、社会貢献の道を選ぶのか、それとも、趣味を生かしたりして個人的で小さな幸せを得ようとするのか。どれがもっとも合理的な選択なのか誰も示してくれない。自分で決めるしかないが、決めるためにはある程度の実力がいる。

どこを探しても希望のかけらもない。

一部の特別に優秀な若者を別にすれば、大多数の若者は、どんなトレーニングをしてどんな職種を目指せばいいかわわからないだろう。多く資産を持つ一部を別として、大多数の中高年のほとんどの人が老後をどう生きればいいかを不安におびえているはずだ。私たちは、一般的な解がない時代を生きている。サバイバルするための、至難書のようなものがあればいいのだが、若者の場合、親の経済状況一つで事情が変わってきてしまうので、そんな書物が表れようがない。

そして、最大の問題は、一般的に解がない時代をこれまで、誰も経験した人がいないことだ。

タイトルは、別れる恋人が最後に踊るワルツをイメージしている。

 

アメリカで、食べたいものを食べる肥満のコメディアンの方が「毎日楽しい仕事をして、毎日好きな物を食べて死ねる方が、嫌いな仕事をして、好きな食べ物を我慢して長生きするよりましだ」とのことです。人それぞれ幸福論は違いますね。

「新 幸福論」
長寿イコール幸福ではない時代の到来。
そこそこ幸せならばいい。
ほかの命を殺さずに生きていけない私たち。
健康であることは幸せの一つ。

新・幸福論: 「近現代」の次に来るもの (新潮選書)

別れによって初めて気づくことがありますね。

「別れる力」
あの震災から一年半。別れることは決して誰か何かを不幸にさせるだけのものではない。それを伝えたくて今日も。。。別れて始まる人生がある。私は35歳で若い妻を癌で亡くした。20歳の時、16歳の弟を海の遭難事故で亡くした。弟の死はふたつのことを教えた。ひとつは自分が人生を決め、そこにむかって歩き続けること。もうひとつは命を大事にすること。

死をもってしかわからないとは。人間は別れることで何かを得る生き物なのかもしれない。別れるということは、人間を独り立ちさせ、生きることのすぐ隣に平然と哀切が居座っていることを知らしめる力が存在しているのかもしれない。二度と逢えない。それは真実。

別れが前提で過ごすのが、私たちの”生”なのかもしれない。出会えれば別れは必ずやって来る。

恋に死ぬ男はバカなのか?男が女のことで自死するのを、バカなことを、と一言で片付けられない。例えば心中というものを人類は続けてきているからだ。今、心中にまで至るほどの恋愛をする男女が果たして何人いるか。それでも恋愛をなめてはいけない。

災いがないと時は、それに気づかないのが人間というもので、それに気づくと、出世や、名誉や、ましてや金などたいしたものではないことがわかる。

奇妙なもので、あの人を見ると安堵すると感じる人は不思議と切ないことや苦しいことを経験している人が多い。

こうしてあなたたち子供やお友達から祝ってもらってしあわせです。世間にはそうしてもらえない人の方が多いんですから。

別れる力 大人の流儀3

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