知は権力?!

人生の幅を広げるには、人と会うこと。旅をすること。本を読むこと。

カテゴリ: 哲学

歴史が好きな人には良いかと。

「銃・病原菌・鉄」

現代のヨーロッパやアメリカの子 供たちが受動的に時間を過ごしていることにある。アメリカの標準的な家庭では、子供 たちが一日の大半をテレビや映画を見たりラジオを聞いたりして過ごしている。テレビ は、平均して一日七時間はつけっぱなしである。これに対して、ニューギニアの子供た ちは、受動的な娯楽で楽しむぜいたくにほとんど恵まれていない。たいていの場合、彼 らは他の子供たちや大人と会話したり遊んだりして、積極的に時間を過ごしている。子 供の知性の発達を研究する人びとは、かならずといっていいほど刺激的な活動の大切さ を指摘する。子供時代に刺激的な活動が不足すると、知的発育の阻害が避けられないと も指摘している。これが、ニューギニア人のほうが西洋人よりも平均して頭がいいと思 われる状況に貢献している非遺伝的な理由である。


銃・病原菌・鉄 上巻
ジャレド ダイアモンド
草思社
2013-07-12



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この書籍は現代の近代化により失われたら幸福感や生き方を思い返させてくれるものでした。私も再度生きることに関して考えさせられました!

「生くる」

現代人は物事を理解しわかろうとし過ぎる。人生や人の心、果ては、あの世から宇宙そして未来に まで及んでいる。だが、我々には本当のことはほとんどわからないのだ。

わかることよりも恩と情に涙し、それに報 いるためまっしぐらに生きる人生を選択する。物事をわかろうとしない方が人生は良い。

この世は、理解できなくても良いこ とばかりなのだ。理解できないから、あらゆる事柄を肌で感ずる人間になれる。わからないから、自己を愛し、他者や他の物を愛することができるようになる。なぜ愛するのかわ かろうとすれば、愛することは絶対にできない。必ず自分の理解を越えたものに突き当たってしま う。わからないものを許容するから愛せるのだ。愛することほど自分を強くするものはない。わからないから愛する。わかろうとすれば、愛は理屈と知識に必ず喰い尽くされる。

わかろうとしなければ、人と物事を信ずることができるようになる。わかろうとすれば信ずること はできない。わからない方が良いのだ。理解できないから信ずる。そして愛し信ずれば、自分の生 を、燃焼させることができるようになってくるのだ。愛するために、信ずるために理解しわかろうと して陥る無間地獄ほど不毛なものはない。

人間は短所も長所も、全部あわせて一人の人間なのだ。一つ否定すれば、否定した人間は自己の正 当性の確立のために次々と否定をする。したがって一つも否定してはならない。

宗教も哲学も科学も歴史も何もかもを、人間の持つ誠が創造してきた。その創造したものが、正し いか間違っているかばかりを議論しているから、本質がわからなくなる。誠があればすべて正しい。 間違っていると見えるものでも、誠があれば正しい。

何が本当に良いのか、何が本当に悪いのかすら難しい。不 幸が幸福の源泉ともなり、幸福が不幸の原因ともなり得る。

家庭の始まりとなる結婚がそもそも、個人に対する制約そのものとなっている。良い結婚とは制約 を自ら喜んで受け入れる姿勢にある。愛情は確かに重要だが、集団を維持する力とはなり得ない。愛 情に頼る限り家庭は崩壊する。結婚式からして、夫婦が愛情だけでは成り立たないとわかっているか ら、互いを縛りあう制約を儀式化して、それぞれに課している。家庭とは、同じ制約の下に同じこと を喜び、悲しみ、夢みる人間の集団なのだ。 「制約が自由意志を奪う、と錯覚され遠ざけられたことで、自由に甘やかされて育った人間が増え、 魅力のない無個性な人間が溢れている。わがまま勝手な自由意志などは決して許さず、制約としての 家族意志を持つことを家風と言う。 良い家庭には家風がある。家風がなければ家族の個性も育たない。

報道機関で発表されたものを科学 的な事実と信じ込む人が多いことにある。報道機関は科学とは何ら関係ない。一般的に言う言論機関 に過ぎない。

料理の文化と伝統の中には、どんな科学的発明発見も及ばない科学的真実がある。変わった食べ 物を発明しようなどとは思わずに、伝統的な食べ物を尊重し、きちっと料理して食べているのが、一 番科学的な生き方なのだと私は言いたいのだ。

何でも人のせい、環境のせい、条件のせいとして、受動的で被害者意識で生きる人間は食 えない人間となる。要するに欲が深くて、人を妬んで、その結果、不健康になり、貧乏になり、不幸 になる。人は誰でも、健康で幸福になりたいのだから食わない人間になろう。食物がなければ食わな い。お金がなければ使わない。そういう自分になる。私はこの考え方が本当にわかってきてから、い やなことはこの世になくなった。

人間は誰でも、他人に助けてもらって今日があ る。人から与えられた愛情や友情がわからなければ、その者は貪る人間となる。要するに、それがわ かるのか、わからないのかに尽きる。

口に出してはならぬことが、この世には沢山ある。それは人間関係の基礎を築き、生活の中心を占 め、自己成長の要ともなっている。しかしこの感覚が、大いに損なわれ、失われていると私は感ず る。それも、言論の自由だの個人の自由だのと嘯く、真の民主主義とはほど遠い日本人の勝手な正義 の理屈によって守られている。だから、実に性質が悪い。人間は言葉の動物である。言葉だけで関係を維持し、文化を築き上げてきた。愛情、友情、信頼な どの信義も培ってきた。個人が何を考えているのか、どんな気持なのか、本当のところはお互い言葉 によって詳らかにしなければわからない。だが、それは何を言ってもかまわないことを意味している のではない。

人間は、その発する言葉によって幸福にもなるし、不幸にもなる。また、他人を不幸にもし、幸福 にもできる。それどころか、創造をも破壊をもなし得る。言葉には、それほどのものがある。 

何でも口に出す習慣が、人々の人生を台無しにし、人間としての積み上げを阻害してきたこ とに、そろそろ気づかなければならない。
自分の手柄や長所を口に出す輩がいる。軽薄の最たるもので、まさに恥を知らぬ行ないとなる。自 分で自分を誉めるなど、忌むべきことに属し、幼稚極まりない。

真の愛情は、相手に尽くして、それに見合う愛情を相手に堂々と要求してはじめて成立する。無償 の絶対愛など存在せぬ。愛情とは お互いの縛り合いに他ならない。それで良いのだ。しかし現代人は、愛情が無償でなければならない と勘違いしているから、見返りを堂々と表明できない。それが愛情の本質を歪め、表面だけの優しさ を愛情と思い違いする風潮を生んでいる。甘えが増幅する社会を作り出してしまうことに繋がってい るのだ。無償の愛などを唱える者は、必ず他者の愛情だけもらって、自分の方は愛情を返すつもりがない

初恋は失恋しなければ一人前になれない」と言われている

事業 と子育ては、自分の時間をとられたのではなく、反対にそれを有意義たらしめてくれたものとなっていた。

今の世の中は、人物の育たない社会となっている。自分が人物になっていきたければ、今のような 表面だけ優しい社会は、人物とはほど遠い身軽足軽人間しか生まないことを知らなければならない。

いつまでたっても判断力の身に つかない人となる。判断は自分で下さなければ、決して本人が困るような間違いは起こらない。その 結果、自分に判断力がないことを自覚しない。だから、判断は下すことにすべての価値がある。そし て、判断を下したならば、即座にその善悪、正否が他人からも問われ、また自分でもわかる。だか ら、あとから批判や評論をするのは、簡単なのだ。 判断を下せば、とれる行動は一つしかない。時々刻々、行動はそうならざるを得ない。判断しなけ れば、自らの意志による行動はとれない。行動さえしなければ、人間は誰でもいつでも、自分は正し いと言っていられる。だから、自分が善人で正しいと思っていたい人間は、決して判断を下さない。

人生は恩に始まり、恩に終わると言っても過言ではあるまい。

私は親の手伝いを通じて人間の基礎を 築いてきたと思っている。私が最初に、自己の存在理由を見出したのは明確に親の手伝いであったと 断言できる。手伝いをして親が喜んでくれるのが一番嬉しかった。しかるに何事であるか。我が家にも、徐々に電化の波が襲ってきた。私がいなくてもいい家庭ができてしまったのだ。手伝うことがなくな ってしまった。便利さの代名詞である電化により、私の存在意義はほとんど皆無になってしまった。私はこの便利という考え方によって、すべてが破壊されていくのをしっかりと自覚し た。


およそ飛躍を行なった人々に共通しているものは、涙を知る人生を送った人たちであったことが挙 げられる。愛するものを無視しなければならない時もある。友と争わなければならない時もある。自 分を心配してくれる人々を泣かせることもある。生活が崩れ去ることすらあるのだ。正しいものを打 破するには、そのような事態を必ず伴う。しかし、この正しいものを打破するという条件を伴わない なら、それは飛躍ではない。だから非常に難しい。ここに真の涙の 源 があるのだ。

生きるとは、捨てて捨てて捨て尽くすことに他ならない。

それは三つに絞られる。

第一の命題「何かを得るには、何かを捨てなければならない」。第二の命題「何かをするには、何 かを諦めなければならない」。第三の命題「何かの新しい概念を受け入れるには、何かの旧い概念を 捨てなければならない」

一人の人間として選んだ、一つの人生をまっすぐに歩んでいただきた い。その捨てる勇気は、必ずやそれを断行した人の人生を、幸福で有意義なものへと導く。 「何かの新しい概念を受け入れるには、何かの旧い概念を捨てなければならない」

生くる
執行 草舟
講談社
2010-12-18



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詩が好きな人にはいい本ですね!

「友よ」

愛が大事なのは、すべての燃料になるからだ。燃料とはあればうれしいというものではなく、色 に必要なものだ。燃料がなければどこへも行けない。誰だって、何だってそうだ。だから感謝の心を 忘れないようにしよう。

どんな困難にも屈せず、耐え抜こう。

間は偶然に出会うのではない。出会うべくして出会っているのだ。それを宿命 と呼びたければ、呼べばよいではないか。ただひとつ言えることは、宿命という縁を抱きしめる 者だけが、そこから生まれる運命を切り拓いていけるのだ。そのことを、最も感動的に表現して いる。

いつ死 んでもよいという気持で生きてきた。いつ死んでも、その時点で、私としては充分に生ききった と感ずるに違いない。


よき思い出をつくる。まさにそれに尽きる。思い出が自己をつくるのである。思い出だけにし か、詩的な自己をつくることはできない。だから、本当によい思い出をもたなければ、詩的な人 生はつくれないのだと知らなければならない。

友よ
執行 草舟
講談社
2010-12-18





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プログラミングはビジネスにも有効だと感じましたね!

「岩田さん: 岩田聡はこんなことを話していた」

自分のやったことを褒めてくれたり喜んでくれた人がいないと作らないもの。

プログラムの世界では、よく全体の中の1%の中身が全体の処理時間の7割から8割を消費しているなどと言われるぐらい、そこばかり何回も処理をしているということがあり得ます。ですから、そのボトルネックになっているところを直さない限りは、そうじゃないところをいくら直しても意味がないんですね。ところが、人は、とにかく手を動かしていた方が安心するので、ボトルネックの部分を見つける前に、目の前のことに取り組んで汗をかいてしまいがち。ちゃんと分かってから行動していくべき。

正しいことをいう人は、いっぱいいます。それでいっぱい衝突するわけです。お互い善意だからタチが悪いんですよね。だって善意の自分には後ろめたいことがないんですから。相手を認めることが自分の価値基準の否定になる以上、主張を曲げられなくなるんです。逆にいうと、コミュニケーションが成立していると時って、どちらかが相手の理解と共感を得るために、どこかで上手に妥協をしているはずなんです。


プログラマーができませんと言ったら、次のアイディアが出しにくくなります。

面白いゲームとは、遊ばずに見ているだけでも面白い

人ってあることを続けられる時と、続けられない時ってあるじゃないですか。才能というのは「ご褒美を見つけられる能力」のことなんじゃないだろうか。成し遂げることよりも、成し遂げたことに対して快感を感じられることが才能なんじゃないかと思うんですよね。





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芸人の若林さんの旅行や心境の表現は、すごいですね。さすが表現力があられると感じました!

「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」

三ヶ国、どの国を比べて俺がいちばん驚いたのは、日本が”世間”を強く信じているということだ。本当に他人のことをよく見ているし、他人に見られていることを意識している。「あの人会社でこうらしいよ」「あの人今こんな人と付き合ってるらしいよ」「あの人時計買ったらしいよ」「あの人Twitterにこんなこと書いてたよ」「あの人Instagramにこんなの載せてたよ」そういう、あの人、あの人の連続。

そうやって世間を進行しているからこそ、マナーをよく守り、まちが清潔で、非常事態に陥っても略奪や暴動が諸外国に比べて少ない等素晴らしい側面も確かにある。

この国ではしっかりと世間を信じれば、世間に大事にされる。しかし、世間を一度裏切れば大変なことになる。毎回、海外一人旅の帰りに成田や羽田に着陸してスマフォを開きネットニュースを見ると、必ず有名人の誰かが不祥事でたたかれていた。



 

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